ヨーロッパの森に潜むダニ脳炎

5)ヨーロッパの森に潜むダニ脳炎

 ヨーロッパを中心に流行している感染症にダニ媒介脳炎があります。森に生息するマダニに刺されて感染する病気で、意識障害を起こして亡くなる人も少なくありません。ドイツの古い民話などには、この感染症を疑わせる患者がよく登場します。

ヨーロッパに広がる「森の海」

 ドイツの位置する中央ヨーロッパには広大な森が広がっており、それは「森の海」とも表現されています。この地域の人々は古くから森を畏怖し、森と密接な関係を保ちながら生活を営んできました。
 ドイツの民話を集めたグリム童話にも、「ヘンデルとグレーテル」「白雪姫」「眠れる森の美女」など、森の中での出来事が数多く登場します。こうした童話から読みとれるのは、森が不思議な出来事のおこる空間であるとともに、そこに危険なものが存在することを暗示している点です。森の中には危険な悪魔が存在するから、あまり近づかない方がいい。こうした警報を、グリム童話などヨーロッパの民話は、子どもたちに伝えているように思えます。
 その悪魔の実態としては、森を根城とする山賊や、オオカミなどの野生動物が考えられますが、そこで流行しているダニ媒介脳炎という感染症もその一つだったようです。

マダニから感染する脳炎

 ダニ媒介脳炎はマダニと呼ばれる大型の吸血性のダニに刺されて感染します。マダニは様々な感染症を媒介することが知られており、最近日本でも増加している重症熱性血小板減少症候群(SFTS)もその一つです。このマダニが生息しているのが森の中で、そこに立ち入ることで、こうした感染症のリスクが高くなります。
 ダニ媒介脳炎の流行地域は中欧から東欧、北欧、ロシアまで広範囲に及び、日本の北海道でも少数ですが患者が確認されています(図7)。この病気の病原体はデング熱や日本脳炎をおこすウイルスと近縁のもので、それをもつマダニがヒトを刺すと感染がおこります。
 このウイルスに感染すると、1週間ほどで発熱やカゼのような症状が出現します。こうした初期症状は数日で消失しますが、患者の1割が2回目の発熱とともに、意識障害や痙攣など重篤な脳炎症状を起こします。この状態になると半数近くの患者にマヒなどの後遺症が残り、死亡するケースもみられます。

Areas at Risk for Tick-borne Encephalitis | Tick-borne Encephalitis Virus | CDC

日本からの渡航者の感染も

 ドイツでは南部を中心にダニ媒介脳炎が流行しており、年間500人ほどの患者が発生しているそうです(外務省・世界の医療事情)。流行時期は春から夏にかけてで、この時期になると、ハイキングなどで森の中に入る人が増えるためです。
 2001年には60歳代の日本からの渡航者がオーストリアでこの病気にかかり、その後、亡くなるという痛ましい事例もありました。最近は、日本からの駐在員や観光客がドイツの森を散策する機会も増えており、昆虫忌避剤(虫よけ薬)を皮膚に塗るなどして、マダニに刺されない対策をとる必要があります。

民話に秘められた病気の影

 ドイツなどヨーロッパ諸国では、古くからダニ媒介脳炎が流行していたと考えられます。森の中に遊びにいった子どもが、マダニに刺されて、この病気を発病したケースも数多くあったはずです。そんな過去の悲しい出来事を繰り返さないようにするため、古い民話の中に、森の中は危険というメッセージが込められたのではないでしょうか。
 実は、森の危険要因としてダニ媒介脳炎にこだわるのは、それなりの理由があります。それは、グリム童話の「白雪姫」や「眠れる森の美女」で、主人公が不思議な意識障害を起こしている点です。たとえば「白雪姫」では、継母の陰謀で森の中に捨てられたお姫様が、毒りんごを食べて仮死状態に陥ります。ところが、そこを通りかかった王子様の愛によって意識が戻るという展開です。「眠れる森の美女」はその題名からも分かるように、意識障害の物語です。100年間、森の中で眠り続けた女性が、やはり王子様の愛で意識を回復させます。いずれも、森の中で重篤な意識障害に陥り、その後、意識が回復するという、まさにダニ媒介脳炎を彷彿とさせる症状なのです。
 グリム童話など古い民話の中には、この病気を疑わせる影が秘められているように思います。

ワクチンが開発されている

 ダニ媒介脳炎には有効なワクチンが開発されています。ヨーロッパの流行地域では小児期に接種する国が増えており、この効果で最近は患者数が減少してきました。
 このワクチンが日本でも2025年から販売されています。合計3回の接種が必要で、1回目と2回目が1~3か月間隔、3回目が初回から半年~1年後になります。日本から流行地域に滞在する人は、2回目まで接種して出発することをお勧めしています。

 ワクチンの登場により、古くからヨーロッパの森で流行していた感染症も、近い将来には撲滅されていくことでしょう。その一方で、乱開発や温暖化などの影響で、ヨーロッパでは森そのものが消失する恐れもあります。今後はこの点にも配慮をしていく必要があります。