日本での寄生虫症撲滅記
8)日本での寄生虫症撲滅記
寄生虫症は地理的・文化的要因に最も影響される感染症であり、日本ではそれを意識した対策を実施することで、多くの寄生虫症を克服してきました。その代表的な存在である日本住血吸虫症、糸状虫症、マラリアの撲滅の歴史を紹介します。
(1)寄生虫は動物性の病原体
寄生虫は病原体の一種で、その大きさは様々です。サナダムシとも呼ばれる裂頭条虫は数mと巨大ですが、マラリアの原因となる原虫は10μm程しかなく、顕微鏡でないと見ることができません。
寄生虫の最大の特徴は、動物性の病原体である点です。細菌は植物性に分類されますし、ウイルスは無生物と生物の境界に位置しています。しかし、寄生虫は動物性であるため、構造がヒトに近く、治療もしにくくなります。さらに、多くの寄生虫は媒介生物を介してヒトに感染します。これは寄生虫側の弱点でもあり、この媒介生物との接触を断てば、寄生虫の感染を予防することができるのです。
現代社会で寄生虫感染は、熱帯や亜熱帯の地域で主に見られるものですが、かつては日本国内でも広く流行していました。しかし、媒介生物との接触を断つなどの方法を駆使し、その撲滅に成功しています。
(2)日本住血吸虫症~水田開発が流行を拡大させた
・幼虫が皮膚から感染する
日本住血吸虫は肝臓内の血管(門脈)に寄生して肝障害を起こします。感染しても数年は発熱や下痢などの軽い症状が時々みられる程度ですが、次第に肝硬変の状態になり、腹水の貯留や栄養障害を起こし、やがて死に至ります。
感染源は小川や池などの淡水中にいる幼虫で、その水に触れると幼虫が皮膚を貫通して感染します。この幼虫は淡水産の巻貝(ミヤイリガイ)の中で増殖することから、巻貝を駆除することで感染を撲滅することができるのです。
・日本には3大流行地があった
日本住血吸虫の流行地は東アジアから東南アジアに広がっており(図11)、日本でもかつては山梨県甲府盆地西部、広島県福山市周辺、福岡県久留米市周辺に大きな流行地がありました。とくに山梨県の流行地域では亡くなる者が多く、「その地に嫁入りする時には棺桶を持参しろ」とまで言われたそうです。
幼虫が増殖するミヤイリガイは、生息地が日本国内でも6カ所だけに限られています。これは、この巻貝を発育させる環境条件に合致する場所が少ないことに起因するようです。上記の3大流行地も数少ないミヤイリガイの生息地になりますが、そこに生息して幼虫を持っているだけではなく、ヒトが淡水に接する機会が増えたために、大きな流行になりました。

・治水後の水田開発が原因か
3大流行地はいずれも、大きな河川の流域に位置しています。山梨県は釜無川流域(図12)、広島県は芦田川流域、福岡県は筑後川流域です。この河川が中小河川と合流する場所は古くからミヤイリガイが生息していましたが、洪水が起きて湿地帯になりやすく、人が立ち入ることは多くありませんでした。
しかし、戦国時代から江戸時代にかけて、治水工事が盛んに行われるようになると、こうした合流部の湿地帯にも人が住み、水田が作られるようになったのです。そこでミヤイリガイが生息する淡水に接する機会が増え、日本住血吸虫症の流行が発生しました。
3大流行地について、いつ頃から日本住血吸虫の患者が増えたかを調べてみると、いずれも治水工事が行われた後であることが分かります。山梨県甲府盆地では、戦国時代末期に武田信玄が甲斐の国を統一してから、広島県福山市や福岡県久留米市では、江戸時代に入り領国大名の支配が確立されてからになります。
このように、日本での住血吸虫の流行は、ミヤイリガイが生息する河川の治水と、それに続く水田開発が原因になっていると考えられます。

・利根川の治水工事は成功例か
実は関東地方を流れる利根川もミヤイリガイの生息する河川で、その下流域にあたる茨城県の取手市などでは、少数ながら患者の発生がみられていました。利根川は江戸時代になる前まで、東京湾に流入していた河川で、その河口付近では洪水が頻発し、大きな湿地帯を作っていました。
これを徳川家康が治水工事により整備したわけですが、利根川の流れを東京湾ではなく、太平洋に流入するように変更したことが幸いしたようです。もし東京湾に流れるままにしておけば、現在の東京都の下町一帯は日本住血吸虫の流行地域になり、江戸幕府の成立も危うかったことでしょう。
・巻貝の駆除作戦で撲滅
明治時代を迎えると日本にも西洋の医学知識が流入し、それまで地方病と呼ばれていた日本住血吸虫症の存在が明らかになってきました。
そして1904年に岡山大学の桂田富士郎が日本住血吸虫を発見し、1913年には九州大学の宮入慶之助が、ミヤイリガイに媒介されることを証明します。宮入はこの功績で1927年のノーベル生理学・医学賞候補に推薦されました。
このように病気の全容が明らかになってから、流行地では薬剤散布や河岸をコンクリート化するなどの方法で、ミヤイリガイの駆除を中心にした撲滅作戦が開始されました。その結果、広島県と福岡県の流行地では、ミヤイリガイの絶滅に成功しています。
こうして、1980年代までには、国内で日本住血吸虫症の新しい患者は発生しなくなりました。なお、山梨県の流行地にはいまだに少数のミヤイリガイが生息しており、流行の再燃を監視する対策が続けられています。
(3)フィラリア症~なぜ容姿を大きく変化させるのか
・リンパ管に寄生する
フィラリアと聞くと犬の病気を思い浮かべる人も多いと思いますが、ヒトにかかるフィラリアの話です。糸状虫とも呼ばれる寄生虫で、この幼虫を保有する蚊(イエカ)に吸血されて感染します。日本ではリンパ管に寄生する種類が流行していました。
リンパ管とは、体の隅々で生じた体液を取り除いたり、リンパ球と呼ばれる免疫細胞を循環させたりする管で、全身に張り巡らされています。フィラリアはこの管に寄生するわけですが、とくに寄生しやすいのが手足の付け根にあるリンパ管とされています。
感染した当初は軽度の発熱やリンパ節炎などを繰り返すだけですが、それが数年続くと患者の容姿を大きく変化させる症状が現れます。すなわち、足が象のように太くなる象皮症や、男性の陰嚢が巨大化する陰嚢水腫などです(図13)。陰嚢が垂れ下がって、地についてしまう大きさになることもありました。
このようにフィラリアに感染すると、命にかかわる病状にはなりませんが、容姿の変化で日常生活が送れない状態になってしまうのです。この病気が日本では古くから流行しており、とくに九州、南西諸島、沖縄で多く見られました。

【引用元】Colour Atlas of Tropical Medicine & Parasitology(1981年)
・西郷隆盛も感染していた
フィラリアに感染していた人物として有名なのが西郷隆盛です。彼は鹿児島県の出身であるとともに、30歳代で5年間、奄美大島などに流刑になったことがあり、そこでこの病気にかかってしまったのでしょう。
40歳代になり彼の陰嚢は人の頭くらいの大きさに腫れていて、乗馬をするのも難しかったとのことです。彼が1877年に西南戦争で戦死した際も、頭部は切断されていましたが、残された遺体の陰嚢の特徴から本人と確認されました。
西郷だけでなく、明治初頭までは南日本を中心に、象皮症や陰嚢水腫の患者が数多く暮らしていたのです。
・陰嚢が巨大化する理由
では、なぜフィラリアにかかると、象皮症や陰嚢水腫といった容姿の大きな変化が生じるのでしょうか。
リンパ管に寄生したフィラリアは数年で死滅しますが、その後も死骸が管内に残り、そこを流れるリンパ液の流れを止めてしまいます。たとえば、足の付け根のリンパ管が閉塞すると、リンパ液は足の皮膚に漏れだします。これが皮膚に強い炎症を起こし、象皮症を起こすのです。
男性の場合、一部のリンパ液は陰嚢の中に流入します。陰嚢は睾丸が入っている袋で、この袋の中にリンパ液が流れ込むのです。その結果、陰嚢はどんどん大きくなっていきます。陰嚢水腫がひどくなると、睾丸の萎縮などがおこり不妊症になる男性もいます。
西郷隆盛には子どもが5人おり、最後の子どもは彼が45歳の時に生まれています。こうした状況からすると、彼はフィラリアで陰嚢水腫を患っていても、不妊症にはなっていなかったようです。
・夜刺す蚊がコントロールの鍵
日本でフィラリアを媒介する蚊はイエカで、夜に吸血する習性があります。このため、夜、蚊に刺されない対策をとることが、フィラリアを予防するためには最も重要です。さらに、フィラリアを撲滅するためには、既に感染している人が、蚊に刺されないようにすることも、重要な対策になります。
フィラリアに感染している人の体内では、リンパ管の中で成虫が交尾をして幼虫を産出します。この幼虫は夜になると感染者の血液の中を流れて、イエカに吸血されるのを待ちます。もしイエカに吸血されれば、その体内に入り、次に健康な人を吸血する時に、幼虫を注入するのです。このような感染サイクルがあることから、既に感染した人も、夜、蚊に刺されないようにすることが、フィライリアの撲滅には重要です。
・感染者の治療で撲滅
日本ではフィラリア症の新しい感染者の発生が、1980年代までにはみられなくなりました。これは蚊の生息数を減らしたり、蚊に刺されない対策をとったりすることに加えて、薬剤で患者の治療を行った効果によるものです。
フィラリア症の治療薬であるジエチルカルバマジンは1950年代に開発されました。日本ではこの薬剤を患者に投与する方法で、フィラリア症を撲滅することが出来たのです。ただ、現在でも国内には、象皮症や陰嚢水腫に苦しむ高齢の感染者がまだいます。こうした症状は治療薬を服用しても、治すことは出来ません。
リンパ管に寄生するフィラリア症は、現在でも全世界の熱帯や亜熱帯で約1億人以上が感染しており、約4000万人がその症状に苦しんでいます。日本での経験をモデルにした撲滅計画は、現在も世界各地で行われているのです。
(4)マラリア~歴史上の人物も苦しんだ
・最後は滋賀県で流行
マラリアは本ホームページの「アフリカの悪性マラリア」でも紹介したようにハマダラカに媒介される感染症で、ヒトの体内に入った病原体が赤血球に侵入し、その中で増殖します。やがて赤血球は破裂し、この時に高熱を発するのです。また、赤血球が壊れてしまうため貧血になり、全身が衰弱していきます。
マラリアの中でも、熱帯熱マラリアは多くの赤血球に侵入するため重症になり、感染して数日のうちに死亡することが多い病気です。一方、三日熱マラリアは侵入する赤血球数が少ないため、慢性的に発熱をおこしますが、死亡するケースはあまり多くありません。
現在、マラリアはアフリカなどの熱帯地域で流行していますが、日本でも1950年代頃までは各地で流行していました。とくに琵琶湖のある滋賀県は、蚊の生息する沼地が多いため、沖縄県を除く日本国内で最後まで流行が続いていました。
・平安京はマラリアの巣窟
日本では古くから「おこり」と呼ばれる周期的な発熱を起こす病気が記録されており、これが三日熱マラリアだったと考えられています。とくに平安時代の京都は洪水が多かったり、貴族の家に池があったりするなど、蚊の発育しやすい環境が多かったため、マラリア患者が多発していたようです。源氏物語にも、主人公である光源氏が、マラリアを疑わせる周期熱に苦しんだ様子が描かれています。
鎌倉時代や室町時代になっても京都周辺でのマラリアの流行は続き、「新古今和歌集」の選者である藤原定家(1162~1241年)も、幼少時から「おこり」の発作を繰り返していました。彼は80歳まで長生きしましたが、最終的な死因はマラリアによる衰弱だったようです。また、一休さんで知られる臨済宗の僧侶・一休宗純(1394~1481)も、京都に在住していた晩年、「おこり」にかかり88歳で死去しています。
・平清盛の症状はマラリアではない
このように日本では三日熱マラリアが全国的に流行しており、患者は周期的な発熱を長年にわたり繰り返していましたが、、藤原定家や一休宗純のように、この病気を持病にしたまま長生きする人も少なくありませんでした。
平安時代末期に栄華を極めた平清盛(1118~1181年)も、63歳で亡くなる時に高熱を発していたため、マラリアが死因ではないかという説もあります。しかし、発病して約1週間で亡くなっており、その経過は三日熱マラリアの病状に合致しないと思います。細菌感染症などの可能性が高かったのではないでしょうか。
なお、マラリアでも熱帯熱マラリアの場合は、発病して数日の経過で亡くなるというケースがよく見られます。平清盛の死因も熱帯熱マラリアなら説明がつくかもしれませんが、日本の本州などでは、熱帯熱が流行していなかったと考えられています。
・温帯では冬に蚊が死滅する
マラリアを媒介するハマダラカは気温が22℃以下になると活動が弱まり、16℃以下では生息することが難しくなります。このため、日本のように温帯の地域では冬にハマダラカは生息できません。もし、熱帯熱マラリアの流行が起きたとしても、その原因となるマラリア原虫は、蚊とともに死滅してしまうのです。つまり、熱帯熱マラリアが流行するためには、常時16℃以上の気温が必要ですが、このような場所は日本では沖縄県などに限られています。
一方、三日熱マラリアの原虫は冬に蚊がいなくなっても、ヒトの肝臓の中で生き残ることが出来ます。これは熱帯熱原虫にはない特殊機能です。一定期間、肝臓の中に潜んだ後、再び血液中に出現するわけです。この時点で春になりハマダラカが活動していれば、原虫は吸血時に蚊の体内に入り、流行を続けることができます。こうした三日熱原虫の特殊機能により、日本のような温帯でも流行することが出来たのです。
・蚊の駆除と感染者の治療で撲滅
では、日本ではどのような方法でマラリアを撲滅したのでしょうか。まずは、蚊の駆除を強力に進めたことが大きかったと思います。第二次大戦後も日本(沖縄県をのぞく)では滋賀県を中心に、福井県、石川県、富山県、愛知県などで三日熱マラリアの国内感染が起きていました。この病気が蚊媒介であることは既に明らかになっていたため、患者が発生していた自治体では蚊が繁殖する沼地を少なくするなどの対策を強化していきました。滋賀県の彦根市では、彦根城の外堀を埋めるといった強い措置がとられました。さらに、住民には蚊に刺されないように、蚊帳の中で寝たり、蚊取り線香をたいたりするなどの教育が行われました。
これに加えて、マラリア患者の治療も積極的に実施されました。三日熱マラリアの場合は、肝臓に原虫が潜んでいるため、これも駆除する治療薬が使われるようになったのです。こうした蚊の駆除と感染者の治療により、日本本土では1950年代前半までにマラリアの国内発生がなくなりました。沖縄県ではその後も患者の発生がありましたが、1974年に根絶に成功しています。
マラリアの流行は現在でもアフリカを中心に世界80カ国で流行しています。この中には日本と同様に温帯の国もありますが、最近は日本で行われた対策などを参考に、多くの国が根絶に成功しています。
