イスラム社会は感染症に強い

7)イスラム社会は感染症に強い

 イスラム教ではその戒律により、不浄な動物を食べたり飼ったりすることを制限しています。こうした効果により、イスラム教徒の多い国では、動物に媒介される感染症の流行がある程度抑えられてきました。これは長い歴史の中で、感染症を予防するために学んだ知恵と言えるでしょう。

豚肉は不浄

 豚肉はイスラム教徒が食べてはいけない食物とされています。ブタは8000年以上前にイノシシを家畜化して生まれた動物で、古代オリエントでは豚肉をよく食べたそうですが、これを食べるのを最初に禁じたのがユダヤ教でした。ユダヤ教の聖典である旧約聖書にも、牛肉や羊肉は食べていいが、豚肉は食べてはいけないと書かれています。このユダヤ教の禁忌が、同じ中東に発祥したイスラム教に引き継がれていきました。
 実は、キリスト教もユダヤ教の流れをくむだけに、初期の時代、豚肉は食べてはいけない食物になっていました。しかし、その後、信者の数が増えるに従って、豚肉の禁忌がはずされたそうです。
 では、なぜ豚肉を食べてはいけないかと言うと、ブタは不浄な動物と考えられたからです。ブタは様々な寄生虫の感染源になっていました。

不浄の医学的理由

 たとえば、サナダムシの一種に有鉤条虫という寄生虫がいます。この幼虫はブタの筋肉内に潜んでいることがあり、肉を十分に加熱せずに食べると、ヒトの腸の中で数メートルにも及ぶ巨大な成虫になります。この成虫が腸の中で産んだ幼虫は全身に転移し、脳に腫瘤を作ることもあります。この結果、患者は麻痺や痙攣など重篤な神経症状を起こすのです。
 もう一つは旋毛虫で、こちらもブタの筋肉内に幼虫が潜んでおり、豚肉を加熱せずに食べると感染します(図9)。この寄生虫も全身の筋肉に転移をおこし、命を落とすケースもあります。
 このように、豚肉を食べると重篤な寄生虫症に感染する危険性があるので、ユダヤ教やイスラム教では豚肉を禁忌にしたと考えられています。ただし、豚肉でも十分に加熱して食べれば、寄生虫も死滅するので心配はいりません。
 では、なぜブタだけが寄生虫に汚染されているのでしょうか。それは、ウシやヒツジが草食性なのに比べて、ブタは雑食性だからです。ブタが家畜化された理由には2つあります。1つは人間の食料としてですが、もう1つは雑食性を利用してゴミ処理を行うためでした。ゴミの中には寄生虫に汚染された動物の死骸などもあり、ブタが寄生虫に感染しやすい原因になったのです。ユダヤ教の人々はそれに早くから気づいていたため、食べることを禁忌にしたのでしょう。この伝統がイスラム教に受け継がれていったわけです。

日本脳炎の流行にも影響

 このようにイスラム教徒の多い国では豚肉の需要が少ないため、養豚業があまり行われていません。この影響でブタが宿主となる日本脳炎も少なくなっています。
 日本脳炎は蚊に媒介されるウイルス感染症で、東アジア、東南アジア、南アジアなどで流行しています(図10)。このウイルスの本来の保有宿主はブタで、自然界ではブタと蚊の間で感染サイクルが成立しています。ヒトはウイルスを持った蚊に、たまたま刺されて感染するのです。
 こうした理由で、日本脳炎はブタの飼育数が多い国で流行し、養豚業があまり行われていないイスラム教徒の多い国では少なくなりました。世界地図で日本脳炎の流行地域を見ると、日本からインドまでは流行していますが、その西のパキスタンでは流行がありません。これはパキスタンがイスラム教国であることが影響しています。さらにその西は中東で、ほとんどがイスラム教国になるので、日本脳炎の流行はユーラシア大陸でもインドより東に限られています。

Areas at Risk for Japanese Encephalitis | Japanese Encephalitis Virus | CDC

イヌに媒介される感染症も少ない

 イスラム教ではイヌも不浄な動物とされており、「イヌに触れてはならない」とか、「イヌの唾液が手についたら7回洗え」といった教えがあります。イスラムの戒律の厳格な国ではイヌを飼うことも少ないそうです。これはイヌが狂犬病を媒介するためと考えられています。この影響で、中東の国々では、狂犬病の患者数が少なくなっています。
 イヌは人類が狩猟生活をしていた頃に、オオカミから家畜化された動物です。猟犬や番犬として活躍していましたが、人類が農耕生活に入ってからは、その役割が減っていきました。それに代わって活躍したのがネコです。この動物は農耕生活で収穫される穀物をネズミから守るため、ヤマネコから家畜化されました。この頃から、イヌは本来の役割を終えて、愛玩動物として飼育されるようになりますが、狂犬病という致死的な病気の感染源になるため、イスラム教では次第に不浄な動物として扱われるようになったのです。
 なお、狂犬病はイヌから感染するケースが大多数ですが、ネコやサルなど哺乳動物全てが感染源になるため、イスラム教国でも注意が必要です。

 イスラム教の戒律には、人類が長い歴史の中で学んできた感染症を予防するための対策が、数多く書かれているのです。